雷電HIROAKI選手 試合直前インタビュー公開!

インタビュー

公開日:2015/07/10

2015年7月12日(日)にディファ有明で行われます「REBELS.37」にて、REBELS-MUAYTHAIライト級タイトルマッチ3分5回戦を行います、雷電HIROAKI選手のインタビューを公開させていただきます。

「納得するまで続けないと、次の人生に進めない」
雷電HIROAKIの七転び八起き人生

聞き手:布施鋼治

──昨年12月、初めてチャンピオン(橋本悟を撃破してINNOVATIONライト級王座を奪取)になって周囲の風景は変わりましたか?

雷電 自分にも自信がついたし、まわりもチャンピオンと呼んでくれるようになりました。
でも、世の中にはほかにも日本チャンピオンがいっぱいいるので、完全に満足はしていないですね。
だからこそいまの目標はWPMF JAPAN-REBELS王座統一トーナメントの制覇です。
そのためにも小川選手には負けるわけにはいかない。

──今回の試合はREBELS-MUAYTHAIのタイトルマッチであるとともに、統一トーナメント一回戦ですからね。

雷電 こんな大きなチャンスをもらえたので本当にうれしい。
王者同士の対決は初めて。
自分もひとつの団体の王者としてやっぱり負けられない。

──小川翔選手の印象は?

雷電 年齢はちょうどひとまわり違うんですよ。
若くて気持ちも身体も強い選手ですよね。
あとバランスもいい。
基本的に何でもできる感じですよね。

──そんなREBELS-MUAYTHAI王者と比べて、自分はどこが秀でていると思いますか?

雷電 まずは体格。
僕の方がリーチも長い。
あとは気持ちですかね。
小川選手も結構前に出てくる方なので、自分も前に出るようにして後手に回らないようにしたい。

──試合当日タイトルがかかるのはREBELS-MUAYTHAIの王座だけですけど、INNOVATIONのチャンピオンベルトも持参する?

雷電 ハイ。
前回(4月26日、INNOVATION新宿FACE大会で組まれた凉太戦)はNJKFとの対抗戦だったけど、相手はライキング2位の選手だったのでチャンピオンベルトを持って行ったんですよ。
やっぱりあると違いますね。
いい意味で緊張します。

──そもそもキックを始めたきっかけは?

雷電 2002年に普通に強くなりたくて地元で始めました。
ある日新聞を見ていたら、自分が住んでいた岡谷市からすぐの諏訪市にキックボクシングのジムができるという記事を見て、「俺もやってみたい」と思ったんですよ。
高校では軟式野球をやっていました。
そんなに強くなかったですけど。

──以前から聞きたかったのですが、雷電HIROAKIというリングネームは誰がつけたの?

雷電 スクランブル渋谷の増田博正会長です。
雷電には雷(いかずち)や稲妻という意味があるけど、それに値する攻撃ができるようにと名付けてくれました。
上京するまではHIROAKIというリングネームでやっていました。

──そうですよね。
地元長野県を拠点に活動していた頃は峯心会所属で活動してきた記憶があります。

雷電 2004年にデビューして2007年12月まで全日本キックで勝ったり負けたりを繰り返していました。
全部で13戦くらいやったけど、負け越していた。
年齢も26歳になっていたし、「もうダメかな」と思って一度はキックから足を洗って地元で1年間サラリーマンをやっていたんですよ。

──復帰した理由は?

雷電 テレビでK-1を見たり、雑誌でキックの記事を見ているうちに「もう一度やりたいな」と思ったんですよ。
休んでいるうちに未練が出てきた。
チャンピオンになるつもりでやっていたのに、休養する前の試合は本当に不甲斐ない試合だった。
「俺はまだこんなものじゃない」という気持ちがどこかにあったんでしょうね。

──それで上京したわけですね。
両親からの反対はなかった?

雷電 僕は長男なので、もちろんありました。
すでに28歳になっていたので、母親は本当に怒っていましたね。
勘当まではされなかったけど、「東京まで言ってどうなるんだ?」とまで言われました。
でも、その時僕は納得するまでやらないと、次の人生に進めないと思ったんですよ。

──スクランブル渋谷を選んだ理由は?

雷電 当時スクランブル渋谷には5~6名のチャンピオンが在籍していたんですよ。
「チャンピオンばかりいるジムってどんな感じだろう」と思ったのが発端です。
僕はずっと田舎にいたので、チャンピオンといえば雲の上の存在でしたからね。

──スクランブル渋谷といえば、密度の濃い練習するという印象があります。
最初からついていけた?

雷電 最初は全然ついていけなかったですね。
板倉(直人。元REBELS-MUAYTHAIウェルター級王者)さんとスパーをやっても、全然歯が立たない。
でも逃げて長野には帰れないと思いました。
結局慣れるまでに半年以上かかったんじゃないですかね。
体力もつき、ちょっとずつスパーでもやり合えるようになった。

──それからも紆余曲折。
王座までの道のりは険しかったですね。

雷電 なかなかなれなかったですね。
最初は2連勝したけど、それからはまたも勝ったり負けたり。
原因?やっぱり自分の武器で闘えていなかったからでしょう。

──雷電でありながら、まだ雷電を持ち合わせていなかった、と。

雷電 そうですね。
いまだったらヒジとヒザという武器があるんですけどね。
その頃はまだ自分の武器を活かしきれていなかった。

──最初に巡ってきたチャンスは?

雷電 一昨年10月にREBELSで黒田アキヒロ選手とやったんですよ。
勝てば一気に上がれると思って結構かけていた試合だったんですけど負けてしまった(2-0の判定負け)。
それでヤバいと思って、あと1年頑張ろうと思ったわけです。

──進退をかけて2014年にかけた、と。

雷電 ハイ、増田会長には「今年ダメだったら引退します」と伝えました。
そうしたら、すぐにJ-NET次期挑戦者決定戦の話が来た。
同じ時期にREBELSのトーナメントの話もあったけど、絶対勝ってJ-NETの王者になろうと思いました。

──でも、髙橋幸光選手に敗北して挑戦権は得られず。
まさに踏んだり蹴ったりの状況ですね。

雷電 そんな矢先にINNOVATIONで挑戦者決定トーナメントの話が来た。
これはもう絶対にモノにするしかないと思いました。
最後はヒジで切ってレフェリーが止めてチャンピオンになることができました。

──その瞬間の感情は?

雷電 信じられない気持ちでいっぱいでした。
本当に自分が勝ったのかと思いましたよ。
チャンピオンベルトを腰に巻いた時には本当に続けて良かったと思いましたね。
せっかく東京に出てきたからにはチャンピオンにならないと意味がない。

──努力した甲斐がありましたね。
客観的に見てどんなところに個性があると思いますか?

雷電 個性といっていいかわからないけど、自分と器用じゃないし、うまいタイプでもない。
リーチを活かして前に出て相手の体力を削りながら最後まで諦めないで闘うしかない諦めない気持ちは増田会長からいやというほど叩き込まれています。

──ジムや会場だと、もう本名(小林)で呼ぶ人も少なくなったのでは?

雷電 そうですね。
断然雷電と呼ばれる方が多いし、その方がしっくりくる。
雷電という名前は気に入っています(微笑)。

○プロフィール
雷電HIROAKI(らいでん ひろあき)
所  属:スクランブル渋谷
生年月日:1981年09月11日
出  身:長野県
身  長:180cm
タイトル:INNOVATIONライト級王者
通算戦績:31戦17勝(2KO)12敗2分

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