【REBELS ~The FINAL~】大川一貴インタビュー公開!

インタビュー

公開日:2021/2/23

「遅咲きでもヒーローになれたら」



2・28『REBELS ~The FINAL~』の「55.5kg契約/BLACKルール/3分3R・延長1R」で、鈴木貫太と対戦する大川一貴。
大川にとっては2019年10月、『REBELS.63 × KNOCK OUT』での敗戦のリベンジマッチとなるが、ここで勝利して連敗から脱出したいという思いも強い。そんな彼の、試合に向けての思いとは?



──鈴木選手との再戦ということで、前回の試合を振り返っていただけますか?

大川 前回は初めての『REBELS』参戦で、僕のキャリアでは初のヒジありルールだったので、緊張していたのもあって、全然うまくいかなかったという思いがあります。今回は多少ルールにも慣れてきたので、そこを払拭してリベンジしたいと思っています。

──前回はやはりルール面でやりづらさがあった?

大川 そうですね。何しろ今まではパンチ主体のK-1ルールでやっていたので、自分でやってみるまで違いがよく分からなかったんですよ。でも実際に試合をしてみると、別競技だなという感覚があって。でも数戦して慣れてきて、今回はそういうわけにはいかないぞという思いがあります。

──鈴木選手の印象は?

大川 どっしり構えてよく狙っている、ムエタイファイターだなという感じですかね。僕が力を出せれば負けるわけがないし、負けてはいけないような相手だと思うので、今回は勝たないといけないなと思っています。

──『REBELS』は今回が3戦目ですが、これでファイナルという大会です。

大川 『REBELS』には山口元気代表が拾ってくれたというか、僕を出させてくれたという感覚でいるので、すごくありがたいという思いがあります。だから最後の記念すべき大会でオファーをいただいてすごくうれしいですし、第1試合ということで盛り上げなきゃいけないと思っています。一発目が大事だと思うので、盛り上げて仕留めたいです。

──最終的にはパンチで勝ちたい?

大川 そうですね。向こうも一回勝ってる相手だから勝ちを狙ってるでしょうけど、お互いその気持ちで盛り上げたいというのもありますし、その上で勝ちたいです。

──このところ勝ち星から遠ざかっています。その中で気持ちの作り方はどのように?

大川 「センスねえな」と思う時もあったし、「向いてねえな」と思う時もあったんですけど、でも何だかんだキックが好きだし、練習をやってても「もうちょっとうまくなれるな」っていう実感もあったりするんですよ。周りから見たら「もうやめろよ」と思ったりもするだろうし、「何のためにやってんだよ」って思うこともあるんですけど……いい年にもなってきたし、少しでもいい形で終われるように花開かせて、勝ってヒーローの気分をもう一回味わいたいですし、遅咲きかもしれないですけど、ヒーローになれたらいいなって思ってます。

──前回、昨年10月の炎出丸戦では石川直生さんがセコンドにつかれていました。今も練習を見てもらっているんですか?

大川 石川さんの時間が空いてる時は見てもらってます。首相撲とヒジの選手だったので、そういう点でアドバイスをもらっています。あの炎出丸戦は、僕は初めてのメインで、偶然ですけど宮田プロデューサーが就任して最初の大会で、セコンドには石川さんもいるっていう、僕が勝ったらオイシイ状況でしたよね。負けても何も失うものはないし、勝ったらオイシイだけっていう。そんな中でちょっとでも会場を盛り上げて勝てたらよかったですけど、そういった意味では僕の中ですごく大きかったなと思います。炎出丸選手もよく試合を受けてくれたなと思いますし、やれてよかったというのもありますし。

──今回の試合で勝つためのカギとは?

大川 距離感ですね。今はジムのタイ人トレーナーと練習したりしているので、けっこう慣れてきたなと思います。対策バッチリで臨みたいですね。今まで出させてもらった中では、『REBELS』の判定では蹴りの方が評価される印象がありますけど、自分が得意なのはパンチなので、そこでしっかり見せたいと思います。

──判定基準にもアジャスト中?

大川 そうですね。ようやく分かってきたというのもありますし、分かったからと言って自分のスタイルを変えるわけでもないので、自分のいいところを出すしかないという感じですね。

──その先について思うことは?

大川 とりあえず、僕は勝たないと話にならないので、目の前の勝利を掴むことで精いっぱいですね。また炎出丸選手みたいな、自分より格上の選手と戦えるような状況に持っていくためには、いい内容で勝たなきゃいけないと思うので。まずは鈴木選手に勝つということが僕の目標です。

プロフィール

大川一貴(おおかわ・かずき)
所  属:青春塾
生年月日:1987年6月28日
出  身:静岡県島田市
戦  績:15戦4勝(1KO)11敗


【REBELS ~The FINAL~】鈴木貫太インタビュー公開!

インタビュー

公開日:2021/2/23

「前戦からの成長を証明するためにも、KOで勝ちます!」



2・28『REBELS ~The FINAL~』の「55.5kg契約/BLACKルール/3分3R・延長1R」で、大川一貴と対戦する鈴木貫太。
鈴木は2019年10月、『REBELS.63 × KNOCK OUT』で大川に判定勝ちを収めているが、今回はKOでの勝利を狙っているという。その理由とは?



──今回、最後に追加カードとして発表されました。参戦が決まった時の心境は?

鈴木 『REBELS』のファイナル、締めの大会にオファーをいただけたことは、すごく光栄に思いますし、注目度の高いリングなので、アピールのチャンスだと思ってます。

──大川選手とは一昨年10月の再戦となりました。その試合を振り返ると?

鈴木 蹴りの距離で試合ができて、どんどん右ミドルを出していったんですけど、それがポイントになって勝てたという感じですね。まだキャリアが浅くて、右ミドルだけで試合をやってました(笑)。大川選手はけっこう回るんですけど、そこに入りすぎずに蹴りの距離を作れて、自分から蹴りが出せたのがよかったです。その時の大川選手はやりやすいという印象だったんですけど、お互いに変わっていると思うので、今回やったらまた違うかなと。

──大川選手の攻撃で印象に残っているのは?

鈴木 近い距離になった時は、Krushとかで戦ってきた選手なのでパンチの回転とかはあったと思います。最近の試合を見ても、近い距離のパンチの打ち合いで有効打を当てているシーンが多いので、対策はしています。

──今回は自分の距離を保つことがカギですか?

鈴木 いや、自分もあの頃と比べると引き出しが多くなっているし、パンチの打ち合いになっても大丈夫です。蹴りもパンチも右の攻撃は自信があるので、それを使って攻めたいです。

──どういう風に勝ちたいですか?

鈴木 自分はまだプロでKO勝ちがないんですよ。一度勝っている選手との再戦でプレッシャーはあるんですけど、当時よりも自分の方が成長の幅がデカいぞという証明にもなると思うので、KO勝ちを狙ってます。

──その先については?

鈴木 やっぱり選手としてやるからには、チャンピオンにはなりたいと思ってます。キャリアは浅いですが、自分が負けた相手は知花デビッド選手だったり壱センチャイジム選手だったり、みんな他団体のチャンピオンで、要はチャンピオンクラスには勝ててないってことなんですよね。今年はたくさん試合して経験を積んで自信もつけて、そういった選手たちに勝てるようになりたいと思います。

──今、特に対戦したいと思っている相手は?

鈴木 さっき挙げた選手たちにリベンジはしたいと思ってます。壱センチャイジム選手とか。その上で、今一番目指しているのは『KNOCK OUT』のチャンピオンです。僕はまだ格闘技を始めて3年ぐらいなんですけど、その中でも強い選手たちと試合させてもらっていて、その中ではキャリアから来る差というか、フィジカルだったりメンタルだったりの差はそこまでないのかなと感じてます。その経験値から考えると、今年から来年、かなり飛躍できるんじゃないかと思っているので、3年以内には実現したいと思っています。

──始めてからデビューまでが早かったわけですよね。それまでにスポーツの経験があった?

鈴木 自分は中1まで野球をやってたんですけど、中学では部活も入らず、高校でもバイトしていて。だからスポーツはほとんどやってないんですけど、小さい頃から魔裟斗さんの試合とか格闘技を見るのが大好きで、それがきっかけで高校の時に体を鍛えてたんです。それぐらいですかね。パワーは元からあったんですけど、パワーリフティングの協会の人にスカウトされるぐらい挙げてて。だからパワーには自信があります。

──ではそこもアピールしたいところですね。

鈴木 自分の攻撃は、当たればしっかり倒せる力を持ってると思うので、そのパワーも生かしてKOできるように頑張ります。気持ちの強さにも自信があるので、お客さんにはそこも見てもらえればと思います。

プロフィール

鈴木貫太(すずき・かんた)
所  属:ONE’S GOAL
生年月日:1996年2月9日
出  身:千葉県袖ケ浦市
戦  績:8戦4勝3敗1分


【REBELS ~The FINAL~】山口元気代表インタビュー公開!

インタビュー

公開日:2021/2/22

「『REBELS』封印には、意外と淋しさはないんです。なぜなら……」



2010年1月にスタートした『REBELS』の歴史が、今大会で幕を閉じることとなった。格闘技界で「最終興行」と銘打って行われる例は珍しいが、創設者の山口元気代表はどんな気持ちでそこに向かおうとしているのか。『REBELS』の歴史を振り返ってもらいながら、その心境に迫った。



──『REBELS』の第1回がウィラサクレック・フェアテックスジムとの合同興行だったという事実は、もはや誰も思い出せないでしょうね。

山口 そうですよね(笑)。あれは……何でだったっけかなぁ……?

──山口代表でもそんなレベルなんですか(笑)。

山口 その前に1回、クロスポイント主催で大会をやってるんですよ。ウチの子たちに試合を経験させたいなとは思っていて、僕は当時、RISEの運営にいたじゃないですか。ヒジありの試合に選手を出す舞台がなくて、どうにかしたいなあと思っていたら当時、ウィラサクレックジムがやっていたM-1の山本さんと、「じゃあやりますか」となって。

──『REBELS』という名前は誰がどこから考えたんですか?

山口 僕です。由来は諸説あるんですけど(笑)、「若き勇者たち」っていう映画があるんですよ。軍国主義に抵抗する若者たちを描いた作品で、最後はみんな死んじゃうんですけど、その映画がすごく好きだったんですよね。大きなものに反逆して戦っていくっていうところがすごく好きで。

──当時、反逆すべき「大きなもの」って何だったんですか?

山口 K-1ルール全盛期で、5Rヒジありというのが目立つ舞台がなかったから、「じゃあそれをやろう」と思って。

──スタート当初から、対戦カードには炎出丸選手やT-98選手が名を連ねてますよね。クロスポイントの所属選手を中心にいければというのがあったんですか?

山口 いや、それはなかったですね。彼らはまだ若手だったし。ただ彼らは基本的にヒジありが得意で、RISEルールがあんまり向いてなかったというのはあって。しかも俺自身のルーツがムエタイだから、それをやりたかったんですよね。

──イベント運営ということで言うと、RISEでもやっていたわけですよね?

山口 RISEは会議に出てるだけみたいな感じだったんじゃないですかね。お金を工面してどうこうというところには関わってないので、ちゃんと運営したのはディファ有明でやった主催興行からですね。

──だったら大変だったのでは?

山口 あの頃はムエタイのイベントが今よりは少なかったんですよね。ウチとM-1ぐらいしかなかったから、選手たちも比較的出てくれて、マッチメイクに困るってことはなかった気がします。だからWPMFの王座決定トーナメントとかバンバンやって盛り上がって。その2~3年後からイベントが増えてきて、奪い合いになってきた部分はありました。

──では最初は、売り上げ的にも順調だった?

山口 本当に初期だけですけどね。でもやっているうちにキツくなってきて、「ちゃんと会社でやろう」ということになったので、応援してくれていた櫻田貴士さんと一緒に運営会社のDef Fellowを立ち上げたんです。でも立ち上げ半年で資本金がほぼ無くなるというピンチになってしまい、慌てて僕がやるようになって黒字に持ち直して。その後は赤字と黒字を行ったり来たりというところですね。

──営業面はともかく、イベントの大きな流れとしては困ることはなかったと。

山口 ムエタイ・ルールに関しては他がやってなかったことをずっとやってたと思うので、いい選手がけっこう出てくれましたよね。流れが変わったのは日菜太選手が加わってからで、彼のためにヒジなしの試合を組む必要があって、そこから2分割という感じになりました。あとWPMFの方でいろいろあって、それまで育ててきたチャンピオンとかが使えなくなったりして、それで考えたのが地方選手の起用なんです。北海道のUMA選手とか滋賀のヤスユキ選手、沖縄の中村広輝選手とか。

──地方で頑張ってるいい選手というのはずっといますからね。

山口 でも東京の大会ではあまり応援に来られないから、彼らのことを宣伝する必要があるんですよ。それで「今ならYouTubeだろう!」ってことで「REBELS.TV」を始めたんです。早すぎましたよね(笑)。

──YouTubeはもちろんありましたけど、今とは存在感というか、また違いましたね。

山口 当時はPCで見るのがほとんどで、まだスマホが無かったんですよ。だから皆んなが気軽に見る感じはまだ無くて。でも地方でキックをやってる人はよく見ててくれたみたいで。地方に行くと「あ、『REBELS.TV』の人だ!」とか言われましたね。K-1もまだテレビ東京の番組をやってなかった頃だったし、毎週必ず見られるキックの情報番組って、ウチしかなかったですから。でもK-1がガンガンやるようになってテレ東の番組も始まって、さらにAbema TVも始まると、情報量ではたちうちできなかったですね。「REBELS.TV」自体は、お金をかけて面白いコンテンツを作ってたと思うんですけど。

──『REBELS』はメディア方面の活動を頑張っているイベントというイメージはありましたよね。

山口 でも、いかんせん大きな資本があるわけではなかったので、ゲリラ的にやれることをやってたという範囲でしたよね。

──日菜太選手の登場でヒジなしもやるようになって、時期的にはKrush、K-1が台頭してくる頃でもあります。その影響はありましたか?

山口 日菜太選手もまだ若くて対戦相手もいたし、まだそこまででもなかったですけど、新生K-1が本格的に立ち上がってからはちょっと変わりましたね。メディアも選手たちの目もそっちに向くじゃないですか。その影響は、いろんな団体、イベントが受けたんじゃないですか。でもウチはムエタイが核だったので、そこまででもという感じです。

──昨年10周年を迎えましたが、そこまで大きなピンチというのはなかった?

山口 本当のピンチは『KNOCK OUT』が立ち上がってからですよ。こちらは小笠原瑛作選手、T-98選手、不可思選手などクロスポイントの主力選手をたくさん出して協力していたんですけど、他ジムから参戦していたウチの現役チャンピオン等主力がバンバン抜かれちゃって、そのフォローもなくて。一時はウチの大会がガラガラになって、どうしようという感じになりました。だから2017~18年あたりは本当に苦しかったです。

──あの頃は他団体は皆んなガラガラでしたね。その『KNOCK OUT』を今は山口代表が運営しているんだから、世の中は分からないものですね(笑)。話を戻しますが、ムエタイのイベントとしてはタイの2大スタジアムのタイトルマッチを組めたのがすごかったですね。

山口 そうですね。ラジャダムナンは2回、ルンピニーは1回やれたのはよかったと思います。梅野源治選手やT-98選手というチャンピオンも生み出せましたからね。

──山口代表が『REBELS』で一番やりたかったことというのは、そこで実現されたわけですか?

山口 僕が一番やりたかったのは、今もそうなんですけど、「アマチュアからプロへのピラミッド構造を作る」ということなんですよ。それはずっと僕の根源にあるんですけど、その時々でやらないといけないことは変わってくるし、いろんなことも分かってくるじゃないですか。キックボクシングはボクシングと違って、まず大きく「ムエタイルール」と「K-1ルール」があるし、その2つがどっちも競技としてピラミッドが成り立つようにしたいなと思ったんです。

──確かに、アマチュアからの仕組みを作るという姿勢はずっと一貫してますね。

山口 変わらないですね。選手達が目指す道筋を見せて行くことが大事なんだなと自分の経験から考えています。最初はアマチュア大会もなかったし、プロの選手がタイトルを獲った後の“上”もない。それを『REBELS』ではルンピニーやラジャダムナンに持っていこうと思ってたんですけど、それもなかなか難しくて。だったら日本のキックボクシングをまずちゃんとやって、今だったら『KNOCK OUT』でREDルールとBLACKルールの階級とタイトルを整備して頂点を決めて、いずれはその先の世界大会がやれるようになりたいですね。

──ということは、現状はまだ全然途中ということですか。

山口 はい、全然です。本当は今頃もっとできているはずだったんですけど、あと10年でなんとかしたいですね。でもその道を後退することにはなってないので、まだいいのかなと思ってますけどね。毎年、大晦日に櫻田さんと話すんですよ。「まさか日菜太選手がK-1に出るとはね」とか、「まさか『KNOCK OUT』をやらなきゃいけなくなるとは」とか。それが、「まさか宮田さんがプロデューサーになるとはね」じゃないですか(笑)。だから少しずつ目標に近づいてはいるんですよ。まだまだですけど、少しずつは形になってるという実感はあります。

──いろいろ変化はありながらも、着実に進んではいると。

山口 今は宮田さんが入ってくれたことで、僕が仕組み作りに専念できるようになったというのもあるんですよ。だから今はすっごい楽です。

──昨年10月から宮田さんがプロデューサーに就任して、いろいろと改革が行われています。その流れで、『REBELS』の名前が今大会で封印されるということにもなりました。名付け親で運営もやってきた山口代表からすると、淋しい気持ちはないんですか?

山口 それが意外と、あんまりないんですよね。

──そうなんですか!

山口 だって、今もやってることは変わらないじゃないですか。あくまで「封印」だから、いつかは解かれるのかもしれないし。要はこうなったのって、コロナが影響が大きいですよね。

──というと?

山口 もともとは、大会場は『KNOCK OUT』で後楽園ホールは『REBELS』という流れを継続してやっていこうということは確認してたんです。でも今は後楽園ホールで態勢を固めるべきというのが僕と宮田さんの共通した認識で、そうすると両ブランドの位置づけをどうしようかということになって。そこで宮田さんが、「今はコロナの影響もあって後楽園しかできないし、地固めの時期だし、それなら『KNOCK OUT』一本でいきましょう」と。僕も「いいっすね!」ということで、何の反論もありませんでしたから(笑)。

──即決(笑)。

山口 だからコロナにプラスして、『REBELS』『KNOCK OUT』を固めなきゃいけないという今の状況はすごく分かってて。今は宮田さんが入ったし、選手もぱんちゃん璃奈選手、鈴木千裕選手、龍聖選手と、『REBELS』『KNOCK OUT』の“顔”として押し出せる選手も増えてきました。まずは『KNOCK OUT』の“顔”を作る作業に集中しないといけないので、それができてコロナも明けたら、大会場でやれる力もつくと思うんですよ。そうしたらまたブランドを分けることも考えればいい話だと思ってますけどね。

──しかし旗揚げからの歴史を考えると、まさか女子選手が“顔”になる日が来るとはという感じじゃないですか?

山口 そうですねえ。でもぱんちゃん選手のことはアマチュアの時から目をつけていて、STRUGGLEの鈴木秀明会長にもずっと「ウチに出して!」って言ってましたからね(笑)。彼女は持ってるんですよ。デビュー戦がパンクラスと合同でやった「PANCRASE.REBELS.RING」大会でデビュー前にテレビの密着がついて、試合も生中継の枠に入ったし。常に注目されるところにいるんですよ。そして女子王座を掴んだのが、昨年のコロナ明け一発目のメインで。ほとんど興行がなかった中で、一発目のタイトルマッチでチャンピオンになったので、すごく話題になりましたよね。

──話を戻しますが、『REBELS』封印にあたって、山口代表に特別な感情はそこまでない?

山口 昨年12月、会見でそのことを発表する当日には「そうか……」とは思いましたけど、全体で考えると明るい未来しかないじゃないですか。『REBELS』が発展して、これから大きくなっていきますよということで、根底は『REBELS』ですから。『REBELS』で育った選手たちがこれから『KNOCK OUT』で前面に出てくるということなので。

──では『REBELS』の歴史の中で、印象に残る試合を挙げていただけますか?

山口 いっぱいありすぎますけど……梅野源治選手がラジャダムナンのチャンピオンになった時(2016年10月23日、『REBELS.46』)は本当に「やってきてよかった」と思いましたね。その前にルンピニーのタイトルマッチで負けたじゃないですか。その後にまたスポンサーさんにお願いしてタイトルマッチを組んで、それで獲ったので山木ジムの後輩の加藤督明会長(当時)も男泣きしてましたし、僕も感動しました。パッと思いつくのはそれですね。

──それは確かに大きな節目ですね。

山口 あと、町田光vsヤスユキ(2014年4月20日、『ジェイアクア presents REBELS.26 ~the duel~』)も思い出深いですね。あれも「REBELS.TV」で特集番組を作りましたけど、橋本敏彦師範がタオルを投げるという試合の結末も印象に残ってます。あれをもっと多くの人に広められなかったのが悔いではありますね。いいストーリーだったし、いい結末だったと思うので。







──他には?

山口 日菜太vsアンディ・サワーの再戦(2015年9月16日、『REBELS.38』)も、その後の流れのきっかけとなる試合でした。あとは中村広輝選手と水落洋祐選手、UMA選手の絡みはどれも面白かったですし。

──先ほども地方の選手の話が出ましたが、『REBELS』の歴史は地方のいい選手を発掘してきた歴史でもありますね。

山口 出てもらいたい選手はもっといたんですけどね。地方の選手を継続して出したかったのですが、予算の問題もあって中々それも出来ずに申し訳ない気持ちがありました。大きなバックがあるわけでもないし、赤字ではイベントが続いていかないですからね。

──逆に言うと、独立資本でよく10年続けてこれましたね。

山口 いやホント、苦しい思いしかないですよね。「何でやってんだろうな?」って思います(笑)。僕には一回も給料は出てなかったし、資産が残ってるわけでもないし。ただ、何でやってるのかというと、やっぱりさっきも言った「ピラミッド構造」を作り上げるまではやめられないなという思いがあるからなんですよ。ちょっとずつちょっとずつ近づいてるのも見えてるから、今は頑張って、最後は「楽しかったね」で終わりたいなと。「宮田さんに全部預けて、やめちゃおうかな」というのは毎日思ってますよ(笑)。でも櫻田さんには本当にお世話になっているので感謝もしているし、最後はいい思いをしてもらいたいというのもあります。組織としても今は俺と宮田さんの50代コンビでやってますけど、そっちも若い世代を育てていかないといけないので、そこは当面の課題ですね。

──では最後になりますが、『REBELS』のここまでをひと言でまとめるとすれば?

山口 「夢の途中」ですね。今の状況は、その言葉がピッタリだと思います。いつになったらそれが現実になるのか分からないですけど、そのつもりで絶対に諦めずにやろうと思ってるので。「ラストマン・スタンディング」じゃないですけど、最後に立っているのは俺たちだというつもりで、いつもやってます。そのためにも僕は表に出ないで、宮田さんに前面に立ってもらおうと。そこで僕がやりたいことをやっていこうと。今の体制は立場的にも、宮田さんがプロデューサー、僕が会社の社長、櫻田さんがオーナーということで、うまい具合になってるんですよ。やっと出来上がったこの体制で『REBELS』の精神を忘れずに、これからも突っ走っていきたいと思っています。

【REBELS ~The FINAL~】UMA引退記念インタビュー公開!

インタビュー

公開日:2021/2/19

「お世話になった『REBELS』と同じタイミングで終われることに、ゆかりを感じます」



2・28『REBELS ~The FINAL~』で引退セレモニーを行うUMA。
地元・北海道のジムからプロデビューし、『REBELS』では2階級を制覇。自身にとっても転機となった『REBELS』のリングで引退を迎える彼にキャリアを振り返ってもらい、プロキャリアに幕を閉じる心境を聞いた。



──引退を決めた理由について、改めて教えていただけますか?

UMA 網膜剥離になって目が悪くなってしまったんです。視力的には右目が特に悪くて、だいぶ目の前がぼやけてる状態になってて。来月、また右目を手術しなくちゃいけなくなったぐらい悪いんですよ。左目は視力的にはけっこう見えるんですけど、そっちのほうがもろいらしくて。

──そうなんですか。

UMA 目の膜は二重構造になってるらしいんですけど、奥の膜がそのまま見えちゃうぐらい、表側の膜が薄くなってるって言われて。そっちの方がもろいから、また剥離したらさすがに視力がまずくなるよということなんですね。右目は視力は悪いけど、膜自体はくっついてる。左目は視力はいいけど、網膜が弱ってると。だからどっちにしても、ちょっと危ないなということになっちゃったっていう感じですね。本当はもっとやりたかったけど、この先の人生を目が見えない状態で生活していくなら、やめざるを得ないかなと。苦渋の決断ですけど、目が見えないと生活できないですから。

──もう、「最後に1試合」なども言っていられないような状態だったということですね。

UMA はい。引退スパーとかやる人もいますけど、それもできない感じでした。即やめるしかないという感じになっちゃって。

──迷う暇もなかったわけですね。

UMA 2年前の年末に1回目の剥離があったんですけど、その時は治るって言われたし、今の医学なら復帰してる人もいるということだったので、その時は大丈夫だったんですけど、2回目に剥離した時は危険を感じちゃって。1回剥離した時点で、もう何年もやる気はなくて、あと2年ぐらいやったらやめようと思ってたんですけど、再剥離したら「今後のことを考えないとヤバいな」って思っちゃって、やめる決断に至りました。

──そうですか……。ではキャリアを振り返っていただきたいんですが、スタートは北海道だったわけですよね。

UMA はい。札幌のジムからJ-NETWORKのアマチュア大会に出て、プロデビューもJ-NETWORKのリング(2010年3月、大森ゴールドジム)でした。

──そもそもキックを始めた理由は?

UMA 昔のK-1を見ていて、アンディ・フグが好きだったんです。その頃に家の近くの児童会館で日本拳法をやっているのを見つけて、9歳ぐらいから通い始めて。それも並行しつつ、中学校の時にはサッカーもやってたんですけど、団体競技が面白くなくて(笑)、向いてるとも思わなかったんで、3年間でパッとやめちゃいました。で、高校に入学した時から、日本拳法もやりながらK&Kボクシングクラブというジムに入会してキックボクシングを始めた感じです。

──日本拳法はいつまで続けたんですか?

UMA 高校卒業までですね。だから俺のスタイルは、前蹴りとかバックスピンキックとか足の裏を使う攻撃が得意なんです。日拳は剣道の胴を着けてやるので、蹴りで足の甲を当てると痛いじゃないですか。それで足の裏を使う前蹴りとか三日月蹴りとかが得意になりました。

──そういうことなんですね!

UMA それがベースにあって、キックボクシングを始めてからはローキックとかハイキックも練習したんですけど、やっぱり小っちゃい頃からやってることが身についているので、やっぱり日本拳法がベースですね。

──プロキャリアの中で、やはり『REBELS』参戦は大きな転機でしたか?

UMA そうですね。J-NETWORKでデビューして何戦かやって、新人王を取らせてもらったあたりから、他団体からのオファーが来るようになって。そこまでずっと連勝してたんですけど、KrushのU22トーナメントで負けてしまった時に、一度気持ちが切れてしまったんです。その時がちょうど22歳ぐらいで、同級生も大学を卒業して就職する頃じゃないですか。だから俺も「いつまでキックボクシングやっていいのかなあ」と思ったりして、身が入らない時期が続いてたんです。そこで一回就職したんですよ。

──あ、そうだったんですね。

UMA 公務員の臨時職員になったんです。ゴミ収集の部署の仕事をしていて、その時に「公務員だから、ケガをして仕事に影響が出るようなことはしないでくれ」って言われたので、臨時職員の半年間はやめてたんですよ。そこをやめた時に、ちょうど『REBELS』のオファーが来たんですよね。それで「最後1回ちゃんとやってやめるか」と思って。その相手が、もう引退した中澤純選手だったんです。

──2013年の『REBELS.15』ですね。

UMA その時、中澤選手はT-98選手とやりたくて『REBELS』に参戦したらしくて、俺は一度、北海道でT-98選手に勝ってるんですよ。だから中澤選手の実力査定のために、一度勝ってる俺が噛ませで呼ばれたんです、たぶん。得体の知れない感じの俺を(笑)。

──本当に噛ませかどうかは分からないですけどね。

UMA でも最後と決めたんで本当に練習したら、運よく1Rで勝っちゃったんですよね。勝っちゃったらやめられなくなったし、山口元気会長の印象にも残ったのか、「次は健太選手とやらないか」っていう話が来て。『REBELS』の群馬大会のメインでですよ。なんか、いきなり世界が変わっちゃった気がしました。

──そうでしょうね(笑)。

UMA 俺はK-1 MAXも好きでバリバリ見てて、健太選手はその前の試合で佐藤嘉洋さんに勝ってたんですよね。日本人では2人目ということで。佐藤さんに勝つなんて、トップ中のトップじゃないですか。それで「ああ、面白いな」と思って。健太選手には負けましたけど、「あと少し工夫さえすれば、できるな」って思っちゃったんですよね。いろいろオファーもいただけるし、やめるにやめられなくなって(笑)。それで今に至る感じですね。あそこでスパッとやめられなくなったので、やっぱり転機ですね。

──そこからのプロ活動は充実していたのでは?

UMA そうですね。プロになったと言っても最初の数戦は、自分が好きだし強くなりたいから、自分のためだけにやってた感じでした。でも10数戦になると、スポンサーさんだったり応援してくれる人が出てきて、他の人の期待も乗ってやらせてもらえるようになってきたので、そういうところでやりがいとか「頑張らなきゃいけないな」という気持ちを乗っけてもらいました。それでけっこう気持ちよくできてたという感じですかね。

──その時には東京に拠点を移すことは考えなかったんですか?

UMA はい、北海道からチャンピオンになるということを目標に頑張ってたし、東京に来たらセールスポイントがなくなって試合にも呼ばれなくなると思ってたんですよね。ちょっと意地になってた部分もありました。それで28歳の頃に健太選手と再戦して、2-1のスプリット判定で負けたんですね。前回で手応えを掴んでて、成長を見せて倒すつもりだったんですよ。全部出し切ったんですけど、届かなくて。俺も「これはちょっと腹をくくってやらないとヤバいな」と思ったし、試合の翌日だったかな? 山口会長から長いメールが来たんです。

──ほう。

UMA 「強豪と当たった時に今一歩及ばないという現状が続いてるから、もう少し強くなりたいんだったらクロスポイントに出稽古に来るといいんじゃないかな?」と。そう言ってもらえるうちが華、じゃないですけど、「これがラストチャンスかなあ」と思って、上京しようと決めた感じですね。『REBELS』で知名度も上げてもらった恩もあるし、『REBELS』でもうちょっとやりたいなと思ってクロスポイント吉祥寺に拠点を移しました。

──タイトルとしては2014年にREBELS 65kg級を獲って、上京後の2019年10月にはREBELS 67kg級も獲りました。2度目の戴冠は、上京の成果が出た結果ですか?

UMA やっぱり北海道では練習相手が少なかったんですけど、東京に来たらいっぱいいるので、実戦感覚が掴めたと思います。あと上京した時に「負けたら終わりだ」と思ってたので、その覚悟も出たのかなと。

──今までのキャリアで、忘れられない試合を一つだけ挙げるとしたらどれですか?

UMA やっぱり一発目のタイトルマッチですかね。北海道から行って、沖縄の中村広輝選手に勝ってREBELS 65kg級のベルトを獲った一戦(2014年7月)です。一つの到達点だったかなと思いますね。

──引退発表会見の時には、「今後のことはまだあまり考えてない」ということでした。その後はどうですか?

UMA 山口会長から、新設されるジムの責任者かつ指導員として働かないかというお話をいただいたんですよ。ちょうどいい区切りだったので、別のジャンルの仕事もやってみようかなという気持ちもあったんですけど、やっぱり今までやってきたことを生かせるのはいいなと思って。それにいただいたお話を断る理由もないので、やってみようかなと思ってます。

──それは北海道なんですか?

UMA いや、それが違うんですよ。東京でも北海道でもなく、今まで縁のなかった土地で(笑)。まあ、なるようになるかなという感じです。

──教えるということについてはどうですか?

UMA ……どうですかね?(笑) これまでは、特に人に教えるのが好きというわけでもなかったんですけど、まあやりがいはあるし、やりながら楽しさを探していければいいなと思ってます。北海道にいた時から、キックボクシングをもっとメジャーに、身近なものにしたいという気持ちがあったんですよ。だからシンプルに、キックボクシングを楽しんでもらえる人が増えればいいなというのがモチベーションになると思います。

──これでキックボクサーとしての活動を終えるわけですが、改めて振り返ると?

UMA 楽しかったと思いますよ。でも、勝つべき相手には勝てるんですけど、殻を破れた試合は数少なくて、その殻を破るために東京に来たのに、けっこうすぐ終わっちゃって……。もっともっと強い選手とやりたかったし、日本にはベルトがいっぱいあるからWBCムエタイとか世界のベルトも獲っておきたかったとか、正直、後悔はいくつかあります。でもケガをして、目が見えなくなってヤバいというのを一回経験したら、健康なうちにやめられたんだったらいいかなという感じです(笑)。今はもう切り替えてますし、いいキャリアだったかなと思います。

──引退セレモニーが、『REBELS』ファイナルの大会で行われることになりました。

UMA 最後にこのタイミングで、自分のホームだと思ってた『REBELS』のリングに上がれるのはよかったです。『REBELS』と同じタイミングで終わりというのもゆかりを感じるし、ありがたいですよね。

──最後にリングに立ったら、どういう気持ちになるでしょうね。

UMA いや、もう練習もしてないし、別にキックボクサーとしての自分にもそんなに未練はないので、そんなに感極まったりはないと思います。「ありがとう」という感じで。泣くことはないと思いますけど……どうですかね?(笑)

──では注目しておきます(笑)。お疲れ様でした!

プロフィール

UMA(ゆうま)
所  属:K&K BOXING CLUB
生年月日:1990年12月12日
出  身:北海道札幌市
通算戦績:43戦25勝(14KO)16敗2分
獲得タイトル:REBELS-BLACK 67kg級王者、REBELS 65kg級王者、ルンピニージャパンウェルター級王者、ACCELライト級王者、シュートボクシングS-cup 2018準優勝、J-NETWORK2010年ウェルター級新人王


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