丹羽圭介インタビュー

インタビュー

公開日:2018/11/23

聞き手・撮影 茂田浩司

「キックボクシングをやればやるほど、『キックはチーム競技』だと思うようになった。
TEPPEN GYMでの練習で自信もついて、負ける気がしない。
僕が63キロの主役だと今回の試合で証明します」

 12月5日(水)、東京・後楽園ホールで開催される「REBELS.59」で注目の1戦が実現した。「REBELS次期エース」潘隆成(ぱん・りゅんそん。クロスポイント吉祥寺)と「キックボクシングの運動お兄さん」丹羽圭介(TEAM KSK)の対戦である。
 丹羽は、前回のREBELS.58でREBELS初参戦。「激闘大魔神」橋本悟(橋本道場)との打ち合いを制して勝利し、一躍、来年新設予定の「REBELS63キロ級王座」の有力候補に躍り出た。
 丹羽といえば、人気パーソナルトレーナーとして忙しい日々を送りながら、練習では主にTEPPEN GYMを拠点に「神童」那須川天心や若手ホープたちと切磋琢磨していることで知られる。
 早速、千葉県松戸市のTEPPEN GYMを訪れて、丹羽にインタビューすると、甘いマスクの裏に秘められた知られざる過去や、TEPPEN GYMと出会うまでの道のりを明かした。






プロデビューは26歳。遅咲きの理由は
「大学卒業して上京、3年間、売れない役者をやってました」



 JR常磐線新松戸駅から10分ほど歩くと、壁に那須川天心の大きな看板が掲げられたビルが見えて来る。階段を上がり、3階のTEPPEN GYMのドアを開けると中では那須川天心や渡部大基らが試合前の追い込みミットの真っ最中。周りの選手たちは大きな声で叱咤激励を続けて、ジム内は熱気が渦巻いていた(*取材は11月17日RISE両国大会の前)。
 そうした輪の中に、最年長の丹羽がいた。

「ここは志の高い選手が集まって、試合前の追い込みの選手にはみんなで声を出して励まし合います。競い合って、高め合って、協力して『チームで強くなる』という意識なんです。それを肌で感じて、体現できない選手はここにいられないと思いますよ。天心が先頭に立って、那須川さん(会長)がガツンと引っ張ってくれる。来るたびにすごく良い刺激を受ける。僕にとってのパワースポットなんですよ」

 TEPPEN GYMは、丹羽が「強くなるため、チャンピオンなるための環境」を求め、右往左往し、試行錯誤した末にようやくたどり着いた場所である。
 そもそも、丹羽がキックボクシングの世界に足を踏み入れる経緯から異色である。
 丹羽が格闘技を始めたのは大学時代。追手門大学の日本拳法部で主将を務めたが、当時は「格闘家になる」という考えは全くなかった。

「大学を卒業してから、大阪から上京して3年間、売れない役者をやってました(笑)。小さな舞台をやったり、映画のちょい役をやったり、モデルの仕事をしたり、細かい仕事をしたんですけど、その頃の自分の表現では全然食えなかったんです。何か人よりも秀でたもの、人にはない特別に売るものがないと売れない。それは何だろうと考えて悶々としてた時、今、ロシアで活躍してる映画監督、俳優の木下順介さんから声をかけてもらいました」

 それは映画の出演依頼ではなく「HAYATOのスパーリングパートナーをやってくれないか」というものだった。当時、木下監督はK-1ファイターのHAYATOと同じ事務所で、HAYATOが「コスプレファイター」長島☆自演乙☆雄一郎との試合が決まって「日本拳法の経験者」のスパーリングパートナーを探しており、丹羽に声が掛かった。
 このことが、丹羽の運命を変えた。

「HAYATOさんとスパーリングをしたら、HAYATOさんに『丹羽君は筋がいいから、俺、セコンドに就いてあげるからアマチュア大会に出てみようよ』と言われたんです。最初は体重70㎏の階級に出場して、勝ったり負けたりだったんですけど、65㎏に落としたら負けなくなりました。アマチュアの全国大会で優勝してプロに上がれるタイミングと、HAYATOさんが引退してジムを立ち上げるタイミングがほぼ同時期だった事もあり『一緒にやっていこう』と言われたんです。
 その時、人にはない、自分にしかできない特別なもの、売れるものはこれだ!と思って『やらせて下さい』と。それからHAYATOジムで選手兼インストラクターとして7年間働きました」

 26歳と遅いプロデビューだったが、RISEのルーキーズカップに出場して優勝。インストラクターの仕事も順調そのものだったが、やがて次々と怪我に見舞われてしまう。

「呪われてたんですよ(苦笑)。まずアゴが折れて、治ったと思ったら今度は腕が折れて、治ったと思ったらまた折れて。結局、アゴ1回、腕を3回折って、2年半、地獄の日々を過ごしたんです。
 新人王になった後は調子に乗った毎日を過ごしてて、何の節制もせず生活も適当。怪我も他人のせいにしてたんです。なかなか自分と向き合うことをしなくて、怪我が続いてからは家を引っ越したり厄除けしたり、いろいろしたんですけど『そういう外に向けることじゃない』と」

 ようやく自分と向き合い、怪我をしない、強くなるための生活をするようになって11連勝をマーク。RISEのタイトルマッチまで漕ぎつけたものの、王者の水町浩に敗れて戴冠はならなかった。
 その後、丹羽は低迷する。トップどころとの対戦が増えると勝てなくなってしまったのだ。その原因は、丹羽自身がよく分かっていた。

「迷っていたんです。『どうなんだろう?』と思いながら練習してて、それが試合に出てしまっていて。
 その頃、僕は相手に当てさせない『二ワールド』という、絶対聖域の距離感を保って相手がやりたい事をさせない、光を消す戦いをやってました。今考えると、倒すというよりもポイントゲッターで上手く負けない戦い、日拳の時に培った自分の距離を守り抜いて勝ってました。でも、その戦い方ではトップ中のトップには通用しなかったんです。
 それで、練習の時から迷って、セコンドの声にも『どうなんだろう?』と思ってたら勝てないですよ。『どうしたら勝てるかな、どうしたらチャンピオンになれるんだろう?』ってずっと考えてました」








左は那須川天心の父でTEPPEN GYM会長の那須川弘幸氏。

Jリーガーの実弟、丹羽大輝のアドバイスで独立を決意。
TEPPEN GYMで那須川親子と練習して覚醒。
「来年、REBELSのベルトを取って、僕がREBELSを盛り上げますよ」



 丹羽は、実弟のJリーガー、大輝(FC東京)との話し合いの中で独立を決意する。

「弟は、全ての時間をサッカー選手として、一流のアスリートとしての過ごし方を徹底していてハイパーポジティブ。それでいて発想も発言もストレートで、シンプルなんですよ」

 2歳下の弟は、迷う兄に対してこう言い切った。
「兄ちゃん、本気でチャンピオンになりたいと思ってるなら、今のままの環境で悶々としてても絶対に勝たれへんで。その迷いがリングで出てる。俺はタイトルマッチで相手と対峙した瞬間に、負けるって思った」

「そうか、そうだな、と思って、ジムを辞めることにしたんです。
 自分のレベルを上げるには、常に刺激が入って、自分よりも強い相手が常にいる緊張感のある状態じゃないと、強くなるための良い練習もできない。それで那須川さんと話した時に『強くなりたいんだったらウチにいつでも来て良いよ』と言って貰って、お願いします、と。それでTEPPEN GYMに行かせて貰うようになったんです。
 HAYATOジムがあったから今の僕がありますし、限られた現役生活を感謝の想いで一戦一戦、命懸けで戦っていきます。活躍する姿とチャンピオンベルトを取って全ての人に恩返しがしたいと思ってます」

 現在、練習のスケジュールは丹羽自身が決めている。

「TEPPENには週3とか4。あとは自分のパーソナルがあったり、ちょこちょことプロが集まって練習したり、菊野克紀さんとも練習してて、沖縄拳法空手の稽古会に参加したりもしてます。あとはボクシングも葛西裕一さんと西島洋介さんに教わってます」

 那須川天心や若手ホープとの切磋琢磨の成果は、前回のREBELS.58(10月8日、後楽園ホール)で存分に発揮された。
 「激闘大魔神」橋本悟を相手に、丹羽は1ラウンドの途中で左ミドルを蹴った際、肉離れを起こしてしまう。試合のプランが大きく崩れてしまうピンチを迎えた。

「倒そうと思ってたんで、怪我した時は内心『ヤバい!』と思いました。インターバルで那須川さんに『もっと蹴れよ!』と言われて『左足が死にました』と伝えたら『マジか。じゃあ作戦変更しよう』と。左は蹴れないんで、右ミドルを蹴れるなら蹴っていこう、ということで臨んだんですけど」

 左足の負傷は、丹羽とセコンド陣が考えていた以上に深刻だった。

「2ラウンドが始まって、動いてみると全然踏ん張りがきかないんです。ヒザカックンみたいになったらヤバいなと思いながらも、ポーカーフェイスで戦ったんで誰も気づいてなかったようですけど(笑)。でも、自信があったんです。相手のパンチはよく見えてたし、自分がパンチを当てる自信もあって『このまま行こう』と。その思いでやり切りました」

 打ち合いを得意とする橋本相手に、丹羽は一歩も退かずに打ち合い、パンチを的確にヒットさせてポイントを奪い、3-0の判定勝利を収めた。

 実に、約2年ぶりの勝利だったが、セコンドに就いたTEPPENの那須川会長は「まだまだ」という。
v 那須川会長「丹羽はあんなもんじゃないですよ。来年は、REBELSの63キロのベルトを取るんだから、次もそこに繋がる試合を見せていかなきゃいけない」

 丹羽は、橋本戦で確かな手応えを感じたという。

「キックボクシングをやればやるほど『キックはチーム競技なんだ』と思うんですよ。選手だけの力では勝てなくて、指導してくれるトレーナー、スパーリングしてくれる仲間、試合ではセコンドもそうだし、応援に来てくれるお客さんも、会場のエネルギーが一つになった時に勝てるんです。試合中に怪我して、蹴れなくなった時も負ける気が全然しなかったのは、お客さんも含めた『チーム』で戦っていて、僕を後押ししてくれたからだと思います」

 次戦の相手は潘隆成(クロスポイント吉祥寺)。REBELSの次期エースと期待され、スーパーライト級を引っ張ってきた。

「潘選手は…、テクニシャンなんで上手いなって思うんですけど、以上です。上手い、以上(笑)。
 試合を見てても、迷ってるというか。迷ったらリングに迷いの悪魔が降り立つんです。だから、僕は向こうの土俵でテクニックで勝負してもいいし、それを突き抜けてる感じで倒しにもいけます。迷いの悪魔、迷いの心を打ち砕く戦いになります」

 丹羽の口調から、どこか「上から目線」を感じるのは、丹羽自身が強烈な体験をしているからだ。
 昨年5月、丹羽は中国で「怪物」と拳を交えている。那須川天心との激闘で一躍日本でも有名になった、あのロッタン・ジットムアンノン(タイ)である。

「センチャイ会長(ルンピニージャパン代表)に『ローキックの出来ない、首相撲の上手くないタイ人と決まったから、勝って帰ろうよ』と言われて『分かりました』って。そんなに映像を見たりもせずに、中国に行ったんです。

 試合前、ゲートの横で待機してたら、僕は集中しているのに、ロッタンがめっちゃケツとか触ってきてふざけてるんですよ(苦笑)。こっちは真剣に試合しに来てるのになんだ、と思ってリングに上がったら、さっきまで隣で遊んでたガキはいなくて、目を光らせた『野生の黒ヒョウ』がいたんです。
 もう人間じゃないというか、試合が始まったら『ヤバい、殺される』と思いました。水町選手とか試合して『強いな』と思ったことはありましたけど『殺される』とまで思ったのはロッタンだけです。

 今、考えれば、天ちゃん(天心)とやる前でよかったです。天ちゃんとのあの試合を見た後なら嫌ですよ(苦笑)。だから、あのロッタンと打ち合える天ちゃんは本当に素晴らしいです。傍で見てても努力の天才だと思います。才能があって、努力を惜しまない。
 でも僕も、ロッタンとやってよかったです。人間じゃない、野生の黒ヒョウと戦ったんで、これからどんな相手が来ようと同じ人間ですからね(笑)」

 潘戦は、丹羽にとって大事なステップとなる。

「前回の試合で1度、のろしは上げたと思うんですけど、今回はしっかりと『俺がREBELSの63キロを引っ張っていく』と示す、大事な試合だと思ってます。(潘は)それに値する強くて上手いファイターだと思うし、そういう選手を超えていかないと先はないと思ってるので。
 僕は、REBELSのテッペン(ベルト)を取るためにやってます。微妙な試合をしても仕方ないんで、誰が見ても分かりやすい戦いをしていきます。
ベルトを取ることで、今まで応援してくれたすべての人への恩返しになりますし、それがREBELSを盛り上げることにもなる。僕がベルトを取って、それで周りも盛り上がってくれて相乗効果になってくれれば“最幸”です。
 僕は確実に盛り上げる自信があるんで、12月5日、ぜひTEPPENに上がる試合を見に来てください」

プロフィール
丹羽圭介(にわ・けいすけ)
所  属:TEAM KSK
生年月日:1983年7月23日生まれ、35歳
出  身:大阪府
身  長:176cm
戦  績:22戦15勝(1KO)7敗
元RISEライト級1位

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