大谷翔司インタビュー

インタビュー

公開日:2019/2/10

取材・撮影 茂田浩司
撮影協力 BAR 30 CLUB(渋谷区道玄坂2-23-11)

元陸上自衛隊徒手格闘訓練隊。
現在は渋谷のBARで働く大谷翔司。
「自衛隊の5年間があるから今がある。地上波生中継の大舞台でベルトを巻いて、『キックの大谷』を知って貰いたい」

 2月17日(日)、新木場スタジオコーストで開催される「PANCRASE REBELS RING.1」(パンクラス・レベルス・リングワン)。日菜太対現役ムエタイ王者シップムーン、「筋肉美女」ぱんちゃん璃奈vs「女子高生ファイター」川島江理沙のトライアウト、「西の爆腕ビッグダディ」KING強介vs「破天荒な天才児」栗秋祥梧のハードパンチャー対決など多彩なカードが並ぶ中、REBELSファンの注目を集めるのがREBELS-MUAYTHAIライト級タイトルマッチ、王者良太郎対挑戦者大谷翔司である。

 王者の良太郎は、選手として活躍するかたわら、もう一つの顔「teamAKATSUKI」の代表として教え子の濱田巧や安達浩平をREBELSに送り込み、ファンにはすっかりおなじみ。対する挑戦者の大谷は、REBELSでデビューし、REBELSで育った期待のホープである。
 両者は一昨年の王座決定トーナメント準決勝で対戦し、良太郎がダウンを奪って判定勝ち。だが、1月23日の会見で大谷は「ダウン以外は自分が圧倒した」と主張。リング上のマイクパフォーマンスや記者会見でほとんど喋らない「寡黙な男」が語気を強めて発言する姿はとても珍しかったが、大谷自身はこう振り返る。
「『アピールするのはもっと強くなってから』と思っておとなしくしてましたけど(笑)、これからはそういう活動もしていこう、と」

 これまで自分のことを一切語らなかった大谷翔司が、悲願のタイトルマッチを前に、初めて自分の経歴とキックボクサーとして見据える未来を語った。






自衛隊の猛者たちに鍛えられた5年間
唯一の悔いは、震災の災害派遣に行けなかったこと



 大谷が子供の頃に熱中したのは野球。「甲子園に出ること」を目標に野球漬けの生活をしていた。
「小学校でソフトボール、中学では部活の軟式野球部と、硬式球を使う地元のクラブチームの両方でやってました。肩に自信があってずっとショートを守ってて、高校は全然無名の吉田高校でショートで3番を打ってました。最後の夏は、練習試合でコールド勝ちした相手で『余裕だな』なんて思ってたらまさかの1回戦負けです。涙も出なかったです(苦笑)」

 部活を引退すると、すぐに地元のキックボクシングジムに入門した。
「中学、高校がちょうどK-1とPRIDEが盛り上がってる頃で、格闘技に興味を持って休み時間は寝技で遊んでました(笑)。部活を引退して、すぐにやりたかったキックボクシングを始めたんです」

 高校を卒業すると、陸上自衛隊に入った。
「特にやりたいこともなくて、父親が公務員なのでその影響です。就職先といっても愛媛県はいい企業がなくて、みんな県外に出ていくか、漁師になって海に出るか、公務員になるかです。野球部からは僕を含めて3人が自衛隊に入って、他の2人はまだいます。辞めたのは僕だけです。
 入隊して、香川県の善通寺市の駐屯地で6か月間教育を受けた後、全国に配属されるんですけど、僕はそのまま善通寺の普通科という歩兵部隊に配属されて、そこに5年間いました」

 自衛隊では、思いがけず「仕事として格闘技の練習」をするようになる。これが人生のターニングポイントとなった。
「自衛隊の中に『訓練隊』というのがあって、ランニング専門、ラグビー専門、剣道専門と分かれていて、僕は徒手格闘(としゅかくとう)専門の徒手格闘訓練隊のメンバーに選ばれたんです。自衛隊時代はだいたいそっちで活動してました」

 徒手格闘は、自衛隊格闘術とも呼ばれ、敵を徒手(素手)で制圧することを目的として編み出された「実戦」を想定した格闘術。
 その訓練は過酷を極めた。
「行事があると、武器を持った敵を制圧する演武を見せたりしますけど、普段の練習は基本的にフィジカルトレーニングと日拳(日本拳法)です。
 訓練は、朝8時から夕方4時頃まで。1日6、7時間はやってました。午前中がラントレでずっと走ってて、午後からはスパーリングです。僕は元々、体幹にあまり自信はなかったんですけど、徒手格闘の訓練で相当鍛えられたと思います。
 当時の訓練隊のメンバーには、自衛隊体育学校から帰ってきた人とか30代後半から40代のデカくて、強い人が一杯いたんです。そういう人たちが1日中バリバリ練習してて、バケモノみたいな強さなので、僕はよくぶん投げられてました(苦笑)。『すぐにプロでやれるだろうな』っていう人たちがゴロゴロいましたね」

 自衛隊の猛者たちに揉まれて、大谷は心身共に強くなった。

「一般の日拳の大会にも結構出て、四国大会では2、3回優勝してます。ただ、有段者と級で分かれてて、僕は級のクラスに出たので四国大会で優勝したから次は全国とかではないですね。参加者はそんなに強い人もいないですけど、人数が多くてトーナメントで120人ぐらい出ます。だから、1日で7、8回は勝たないと優勝できなかったです(笑)。
 練習は月曜から金曜まで。2、3か月に1回遠征があって、沖縄とか練馬にも来てました。行った先の訓練隊と合同練習をして、最後は試合をして。そういう遠征も楽しかったです」

 大谷は、5年間の自衛隊での生活を「楽しかった」と振り返る。
「1日中、日拳の練習をしたり、訓練をして、それでお金が貰えるんですから(笑)。僕は体を動かすのが好きで、格闘技も好きで、全員寮生活なので友達も一杯出来ましたし。家賃がいらなくて、飯も全部出るので貰った給料は全部自由に使えたんです」

 そんな大谷が唯一、表情を曇らせたのが東日本大震災のこと。
「先輩や同期が災害派遣で被災地に向かったんですけど、僕はちょうど肩を脱臼して入院していて行けなかったんです。参加したかったですね……」






スクランブル渋谷で練習し、渋谷のBARで働く生活
プロ3連敗、試合中の脱臼、様々な試練を乗り越えて、上京4年目に掴んだチャンス。
「死んでも負けられないです」



 23歳になると「もっとキックボクシングをやりたい、プロで自分の強さを試したい」と思うようになり、自衛隊を辞めて、地元のジムでキックボクシング団体「イノベーション」のプロライセンスを取得。2015年5月に上京した。
「ネットで色々と調べたら、イノベーションの加盟ジムに『スクランブル渋谷』が出てきて。渋谷にあこがれがあったので(笑)、REBELSにも出れるし『ここだ』と思って。連絡して『イノベーションのライセンスを持ってるんですけど、プロ練に参加していいですか』と聞いたら『いいよ』と言われて」

 職場も渋谷にこだわり、探し回って、現在も働く「BAR 30 CLUB」を見つけた。
「僕は、やりたくないことはあまりやれない性格で、どうせなら意味のあることをしたい、と思って。昼夜逆転のリスクはあるんですけど、今はやりたいことは全部やっとこうかなって。現役を引退したらバーの経営をしたいので、勉強のために働いてます。
 人見知りなので最初はきつかったですけど、今は慣れて、楽しいです。お客さんに応援して貰ってて、僕の試合には毎回5、60人来てくれます。みんな格闘技に興味ないのに(笑)。オーナーも無茶苦茶応援してくれて、デビュー戦から毎試合来てくれますし、メインスポンサーなんです。新しくキックパンツを作るんですけど、大きく広告も出してくれました」

 2016年4月、REBELS.42でのプロデビュー戦に勝利し、2か月後のイノベーションでも勝利して2連勝。順調なスタートだったが、プロ3戦目にウザ強ヨシヤ(テッサイジム)に判定負けを喫すると、そこから3連敗を喫した。

 当時の大谷を、スクランブル渋谷の増田博正会長はこう振り返る。
「ジムに入会してプロ練に来るようになった時『独学でやってきたんだろうな』という印象でした。センスはあるんですけど、基礎からしっかりと教わってなくて、自分の好き勝手にやってきた感じだったんです。ウチに入ってからも『練習をただこなすだけ』でした。
 それが3連敗したことで意識が変わりましたね。サンドバッグもミットも集中してやるようになりました」

 大谷にとっても3連敗のショックは大きかった。一瞬「辞めて、愛媛に帰ること」も頭をよぎったという。
「『センスがないのかな?』と思って。でも、カッコつけてカバン1個で上京して、3連敗して『ごめん、無理だった』と地元に帰るのは恥ずかしくて出来なかったです。もうやるしかない、勝って立ち直るしかないんだ、と思いました。
 今考えたら、あの頃は気持ち的に全然乗ってなかったです。何となく『この練習さえしておけば勝てるだろう』という感じで『自分はどうなりたいのか』も明確じゃなかったです。1度負けて『やべえ』って気持ちが落ちて、そこからズルズルと、気づいたら黒3つ付いてました」

 今は違う。大谷には明確な目標がある。
「ベルトが3つ欲しいです。REBELSと、愛媛にいる頃からあこがれだったイノベーションのベルトを獲って、世界のベルトが1つ欲しいです。(増田)会長みたいなベルトの獲り方がしたいです」

 大谷を育ててきた増田会長は、伝説の団体「全日本キック」の黄金時代に数々の激闘を繰り広げ、2階級制覇した後、WPMF世界王座を獲得した名選手である。
「会長はあこがれです。選手としてもそうですけど、分析能力とか人を見る目に長けていて。試合中も『ここがダメ』とか、とても的確なアドバイスをくれて、いつもすごいな、と思ってます」

 現在、大谷はバーで週6日働く生活をしている。
「バーは毎日営業しているんですけど、僕は土曜日だけ休みを貰っていて、月曜から金曜は夜8時から朝4時まで、日曜は深夜2時まで働いてます。日曜日の営業が終わったら、帰ってソッコーで寝て、10時に起きてトレーニングキャンプ吉祥寺でフィジカル、昼食の後で少し休んで、午後3時からスクランブル渋谷で練習して、終わったらまたバーに行って働く、という生活です。
 キックで稼げるようになったら? バーの仕事もまだまだ学ぶことがたくさんあるので、バイトの日数は減らすかもしれないですけど、ずっと働きたいと思ってます」


 今大会に向けた1月23日の記者会見では、これまでにないほど強い口調で大谷は発言した。

「タイトルマッチでいい勝ち方をすれば多くの人に注目して貰えると思うんで。勝つのは最低条件で、いい勝ち方をしてベルトを巻きたいと思います」
「(良太郎との一昨年の試合について)内容的には五分五分か、僕の方が圧倒してた。自分がミスさえしなければ、今回はベルトを巻けると思います」
「この1年半の自分の成長は(良太郎に比べて)絶対に負けてない自信があるんで。その辺も注目して見て貰いたいですね。(成長したところは)トータル的に伸びてるんですけど、モチベーションも全然違うし、練習に対する姿勢、考え方も全然変わってて。それプラス、フィジカル、テクニックも上がってます」

 こうした発言も、大谷の中の「変化」の一つ。
「今までは強さばかりを求めてて、知名度を上げようとかそっちの活動を全然してなくて。ずっと『もっと強くなって、チャンピオンになってから』と思ってたんですけど。今のうちから言いたいことを言ったりしておかないと、と思って。
 記者会見では『アピールしよう』とちょっと意識しました。ただ、ああいう感じの方が自分の素といえば素なんです。今までは意識して控えめにしてました(笑)」

 一昨年の王座決定トーナメントで良太郎に敗れた後も、決して順調ではなかった。昨年2月のREBELS.54で雅駿介(フェニックス)との試合中に左肩を脱臼してTKO負け。大谷は激痛でうずくまり、担架で退場する屈辱を味わった。
 脱臼癖のあった左肩を手術し、ようやく昨年12月のREBELS.59で復帰。ライト級次期挑戦者決定戦でウザ強ヨシヤにリベンジを果たし、とうとう悲願のベルトまで「あと1勝」というところまでこぎ着けた。

 増田会長も、大谷の成長ぶりに期待を寄せる。
「当て勘もいいですし、フィジカルは自衛隊で鍛えられていて元々強かったですけど、吉祥寺でのフィジカルトレーニングでさらに強くなってます。今回は地上波生中継ですし、ベルトを獲ったらたくさんの人に『大谷翔司』を知って貰えます。大谷には『これで獲らないと意味ないよ』って言ってます。ベルトを獲って、もっと上を目指せる選手ですから」

 大谷自身、自衛隊での安定した生活を捨てて上京し、4年目にしてようやく掴んだチャンス。心中には期するものがある。
「愛媛にいた頃、REBELSのベルトは『夢のまた夢』でした。上京して、実際にREBELSの試合を見たら強い選手が揃ってて『やべえ団体だな』と思ったので、今、自分がREBELSのベルトまであと一歩まで来てるのがちょっと信じられない気持ちも正直、あります。
 だけど、今の位置では全然満足してないです。この地上波ゴールデンタイム生中継の大会が来たタイミングもピッタリで『こんなチャンスないだろう』っていう。
 この試合が決まって、自衛隊時代の幹部の人たちからもたくさん連絡をいただきました。『がんばれよ』って。そんな喋ったことのない上官からも『応援してるから』ってLINEが来たり。地元の友達はみんな興味なくて『何やってんの? 飲みにいこうぜ』みたいな感じなんですけど(苦笑)。
 プレッシャーはありますけど、今回は死んでも落とせないです。勝ちに行くのが大前提で、変に『倒そう』と考えると大振りになって首相撲でスタミナを奪われて、っていう展開になるリスクがあるので、今回は勝ちに徹します。それがイコール、倒しに行くことになるのかな、と思うんですけど。
 しっかりと自分の強さを見せて、REBELSのベルトを巻きますので、TOKYOMX2の生中継かエムキャスで、ぜひ試合を見て貰って、応援をよろしくお願いします」

プロフィール
大谷翔司(おおたに・しょうじ)
所  属:スクランブル渋谷
生年月日:1991年1月12日生まれ、28歳
出  身:愛媛県宇和島市
身  長:178cm
戦  績:2016年4月プロデビュー、12戦7勝(3KO)5敗

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